死ぬ権利はあるのか?

ちょっと間が空いてしまった。 自殺についての考察を、続けている。 そもそも自殺する権利って、あるのだろうか。 誰にも決して実行してなど欲しくないけれど、果たしてそうする権利を人間はそもそも有しているのか。 自殺する動物は、人間だけだと言われている(もっともイルカなんかも自殺するらしいけれど)。 厳格にそれを禁じている宗教もある一方で、神の名の下に自爆テロなんて宗教もある。 もっとも自爆テロの場合、自殺に対する主体性が本人ではなく神(を、語るもの)にあるので、自殺と言ってよいのかどうだか。 そう言った意味では、自分の死が軍の命令によってもたらされる、太平洋戦争中の帝国陸海軍の特攻は、自殺ではないのは明らかだ。今後は、自殺攻撃とか言わないでもらいたいものだが。 私が、この疑問に対して自分なりの答えを見出したきかっけとなったのは、確か中学の教科書に出ていた吉野弘氏の『I was born』という有名な詩だった。その詩の内容や解釈は、もっと詳しい方がおられると思うので敢えて触れないが、そのタイトルも示す通り、どうしようもなく受動的な宿命を持った人間の生(誕生)を、いかにして主体的な自分の人生に変換するのかというのが、大きなテーマだったように思う。 その時私が考えたのが、「自殺する権利」だった。 本来受動的な人間の生は、自殺する「能力」と「権利」を留保し、いつでも行使しし得るその権利を、敢えて主体性をもって「行使しない」ことで、自分の生が主体的なものになるということ。 言い換えると、自殺の権利の行使を拒否し続けることが、生の主体性の根幹である。 よって私の結論は、主体的生の前提としてその行使を拒否し続ける為に、我々は「自殺の権利」を持っているということである。


posted by しげじたん at 2013年03月01日16:31 | 教育論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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